昭和四十八年十一月二十四日 朝の御理解
御理解第十八節 「此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」
z私は今朝方お夢を頂いとりました。一人が真に助かると、一家が助かる。一家が助かると、一年、一年が助かる。一年、二年のね、一年が助かると一生が助かる。
一生が助かるとあの世でも助かる。何か一つもわけのわからない感じですけれどもそういう意味の事を何というでしょうか。何とも言えないですね。言葉には表せませんけれども、あれが極楽ム-ドであろうような、ム-ドの中でね、そんな事を頂きました。
私が本当に助かったらね、一家が絶対助かるです。私が助かり一家が助かったらですね、もう、一年間、一年間が助かる。一年間が助かるのです。
だからその一年間が助かるという事がね、こんなに素晴らしいこと、こんなに有難い事ですから、もう二年目も三年目もね、これを頂く。これを育てて行く事に精進する以外にないという事になって来るです。
信心しよれば、御利益を受けるとか、おかげを受けるかという意味合いではないです。いわばそういう助かりがね、一生のそういう助かりが、あの世までも助かるという事につながっとるということなんですけれども、今日この十八節を頂きましてね、私共がその、私共が皆、神の氏子じゃとおっしゃる。
此方の事を生神、生神と言うが、生神とはここに神が生まれるという事であってと此方がおかげの受けはじめとおっしゃる事を私が今朝から頂いた事をこう繋いでみるのです。
だからまずは、私共が神の氏子としての自覚とそれを、なら、神様がどういうような進展を遂げて行かれるかというその経緯の事をね、まあいろいろ、まあこの私の事を思ってみてもわかるし、皆さんでも、皆信心を進めておいでられるならば、信心が育っておるならばはっきり言葉では言い表せんけれども、何か私が今朝から頂いた事とその御理解十八節とが何とはなしに、おぼろげながらわかっていくような気がいたしますね。問題は自分自身が本当に助かるという事。
※ ※ ※ ※ ※ 思いがけないところから、現、金光様の御書き下げの「心」と書いて下さってあるそれを頂いて、然しまあ不思議な事じゃあるなあ、昨日の豊美達夫婦が今日帰りますから、私の部屋に来て昨晩遅くまで話しておるのです。で、話してしる本当に親戚の者にすら、金光様の御書き下げはそう頂けないというのです。
ならというて教会だから頂けるものではない。ところがここの場合は、どこからか集まってくるのですね。軸だって、あの額だって、色紙だって、短冊だって、やはりそうです。ここはあれは軸にさせて頂こうと思うのですけれども、もうそれこそ、思いがけないところから集まってくる。
東京の・・・勝彦の家内のまあ里であります、東京に見えるお客さんを通してですそのお客さんがまだ、学生時分のからのとつきあいが、何か飲み友達らしいそうですけども、ああ、あんた合楽の教会に、そうした縁があるのなら、金光様の、現教主の・・・生神様と皆頂いとる事だから、何か書いてもろうてやろうと言いよんなさったそうです。
そして見えてから、丁度ここに来る前に、それを持って見えて来て下さったから、まあ家に置いても宝の持ち腐れと。だからこちらへ持って来たというて今日、兄さんが結婚式に見えて持って来て下さった。もう不思議な事ですね。
まあ、そういう事から、いろいろ何申しましょうかね、人間が神様付き合いになるという事です。人間の神様とのお付き合いが出来るようになるという事はもう、本質的に、神様と私共が同じいうならば、質をもっておるのでございますけれども、私共の心を信心に向けない、信心に焦点をむけないところから、似ても似つかないものに変質していくわけです。
もうそれこそ、この人間ばかりはもう、人間の面(つら)被っとるだけだと、それこそ鬼か蛇か、犬か、畜生かという事になりかねない。
だから性が神様を頂いとりましても、質が変わってまいりますと、犬、畜生にも劣っていくことになる。
それを私共が心に焦点を於いて、信心をさせて頂く事によって、その本質が本質たらしめられてくる。神としての本質を表して行く事が出来る。
その神としての本質を表していく事がです、例えば昨日、月次祭に若先生が話しておりましたように、いわゆる私共のもう一つの世界といったように住むことが出来るいうなら、次元の違った世界に住むことが出来る。そこにね、人間の真実の幸せ、神も助かり氏子も助かりといったようなおかげになってくるわけなんです。
今朝から私、あの結婚式を終えましてから、昨夕旅行に出ております、昨夕、晩、鹿児島の方へ着いたと言うて電話がかかって参りました。そのことを神様に御礼申さして頂いとりましたら、z愛子が生まれます時から、それから泰子が生まれます時から二人がもう双子のように育ってきて、段々長ずるに従って今日にいたっておる事の、事とそれこそ次から次と走馬灯のようちあの頂くんですよ。
r私が御本部参拝を、私が一番修行中の真っ最中のころ、丁度帰って参りました。そしたら、椛目の入ってすぐのところへお縁でしたか、あのお縁のところで二人が遊んでたんです。
二人が、二人ともようやくよちよちしておる。私が帰って来たものですから二人ながら、父ちゃまというてやって来たんですよ。私はもうどっちを先に抱いて良いやらわからなかったんです。
けど、私の心の中にもう、瞬間的に感ずる事ですけれとも、愛子は私の本当の娘、片一方は父親がいないから、私を父ちゃま父ちゃまというて育っておりますけれどもやはり姪であります。だから本当の愛情という事になってくると、やはり自分の娘に手が行こうごとあるけども、そこをぐっと抑えて、泰子の方を抱いて、大変感動した事がございます。
そういう生き方なんです。私はね、心のね、いわば精進を遂げて行く事は、そういう私は努力がいると思うんです。
rそれが丁度、保育園に通うようになりました。私はあの時分は朝から夕方までもう絶対立たないという修行さして頂いておる時でした。
rですから、勿論門外不出ですから、親教会にも、ああいう疎遠になっておる時ですから出ませんでした。ですから家から一歩も出ないという時分でした。
r保育園から帰りますと必ず、お結界に出て参りましてから、只今と言うてやって来るんです。私はその時に何かしきりに有難いやら、嬉しいやらわからんような感じていうならば、立たれない又ここを動けないという事が、私は一寸淋しかったのかもしれません。そこへ二人が帰って来たんです。それで今日は何ば習って来たね、なら、神様の御礼に今日習ってきたつば、歌か踊りか踊ってごらんと言うたら二人がここで、歌を歌いながら踊るんですよね。それが“雨が降ります、雨が降る、遊びに行きたし傘はなし、”丁度私の心の状態ですね 遊びに行きたし傘はなし、紅緒のカッコも緒が切れたと言う、童謡を歌って踊るんですよ。
それを見させて頂いて私が、もうそれこそ声を上げて泣きたいような感動、感じでございました。そんな事をこう感ずる。
rこれはもう、小学校の一年か二年の頃じゃったと思うです。二人が学校から帰ってくるのに何かしら、口げんかをして帰って来よるんですよ。それからその時分にはね、学校で、よい言葉を使いましょうという運動が学校であっていたんです。だから悪い言葉を使うとカ-ドをこうやってならんならんごとなっているらしい。二人その喧嘩しながら、その良い言葉を使いながら喧嘩しよるわけですね。泰子と愛子がこんなこと言うて、それこそ私はお結界で一人笑いをした事がありました。
rあなたがね、くらしなさったけん私もくらせました、と言いよるとじゃん。そげんくらせなさらんがよかと思いますじゃん。あなたがくらせなさいましたけん、私もくらせました。もうそれがですね、もうお結界で、それこそ腹を抱えて笑うような事がございましたがね。
それから中学校も一緒でございましたし、それから高校も一緒に、高校も二人ながら浮羽高校でございました。そして私共は合楽に来るようになり、妹が椛目の方をみるようになり、それからあちらに養子を迎えさして頂いて、そして養子を迎えて半年もう本当に仲むつまじゅう暮らしとりましたけども、御承知のように、ああしてお国替えのおかげ頂きました。
そして今度愛子があちらに行くようになりましてね、いうならば、一人の男性をあの人達二人が愛しなければならないじゃなくて、愛していく事になることをもう、誰よりもかれよりも、喜んでくれるのは泰子じゃなかろうかと。
又本当、人間の宿命とでも申しましょうかね、それがその段々、そういう一つの生神へ向かって精進していくというか進化していく。その一つの過程をね、あの人達二人の事から聞いて頂こうと思ったんですけれども、これからいよいよ、仲むつまじゅう、愛し合いながら生涯を終わることでございましょうけれどもです、生神に向かう過程というのは、今愛子と泰子の事を聞いて頂いた、そういうところがなからなければいけないと思う。
例えば私があの人達二人にかけた思い、又自分達が精進していく、大きくなって行く、育っていくというような、そして、いよいよこれから、いよいよ生神への道を進めて行くだろうというその心の状態が、いよいよ有難いものになって行く。
一人が助かる、一家が助かる、いうならば、一家一門が助かる。これは池尻のところの事を考えて下さればよいのです。
その一家が助かると一年が助かる。一年そこのことはよく意味がわかりませんけど一年か本当に信心ちゃ有難い事ね、それこそ佐田さんじゃないが一家中が、ほうらね神様ちゃ間違いないねと言ったような生き方を一年したら、もう二年目にはその生き方を止められるはずがありません。
どんな場合であってもそれが一生続く。その助かりがそのまま、あの世にも繋がって行く。私共はそういう絶えず生神への進展、精進を続け、それを成し遂げさして頂くとい事がこの世に生まれた私共の、生き甲斐でなからなければと思うのです。
おかげを頂くことが信心と、だから本質的に実は違うのです。問題はまず私が助かるという事。私の、だから心というものをです、疑えば限りがないこと、あるやらないやらわからんのですけれどもです、その心がです、それこそ神様付き合いが出来るような、そしてどこからなりとも集まってくるというような、霊妙不可思議な世の中もうそこには、普通の人間とは次元の違った世界、又、同じ人間であっても、段々低下して行く人間、それから進化して行く人間とがあるという事。
これ神の氏子としての自覚によって、いよいよわが心が神に向って行くという事、同時に生神とはここに神が生まれる事であってと、その時点、時点にです、例えば、有難い、それには精進がいるのです。
例えばこちらの方へ手を出そうごとあっても、考えてみた時にです、こちらが本当だと思うた時には、ぐっと抑えて信心の方を取って行かねばいけない、いけないという事です。それはもう、これが欲しいけんで、こうしょうごたるけんでというたら人間の精進はありません。
二つの事があって、それは心情としては我が子の方へ手が行こうごとある。それをぐっと抑えるところが大事なのです。
又は今、修行中、只今が修行中だという時にはです、それこそ私は泣く泣くでも辛抱させて頂く信心修行がなされなければ、私は心の進化を遂げて行く事は出来得ないと思うです。
それが例えば一年続いてごらんなさい。それこそ、ほうらねというようなおかげになってくるし、素晴らしいおかげの世界に住みかえて行く事が出来る。
これを一生続けて行く、一家一門が私共の周辺が、それがあの世までも持って行けるのであると同時に、あの世までも助かるという事に繋がって行くのですございますから、私は金光様の御信心はそういう深遠なところに焦点を於いての、いわゆる生き方。その中には雨が降る事もある、出ろうと思うけれども出られない事もある。
一寸、他をみると人はみなわがままほうだい、遊びほうけてござる人の姿を見るとちょっとこう信心しよるけん、かえって窮屈というところがあるかもしれんけれどもそこに人間を中心としてです、畜生の方へ低下していく人、神格化して行く生き方と私共はそのことの為にこの世に生を受けたというても間違いないのですよ。
ですから、そこのところの本質的なところを一つわからせて頂いて、いよいよわが心が生神とはここに神が生まれるという事であってとおおせられる。
自分の心の中に有難い、自分ながらわが心に合掌したいような、心の状態をいよいよおかげをこうむって行くところの心を育てて行かなければならないと思うですね。
どうぞ。